麻植の地名と校章

 4~5世紀の大和朝廷の時代に、現在の吉野川市[旧麻植(おえ)郡]を中心に 開拓し、居住した地方豪族が忌部(いんべ)族です。
 忌部族は、中臣氏(後の藤原氏)と同様、祭祀(さいし)をもって奉仕していた中央豪族でした。 麻を生産したのでこの地を「麻植(おえ)の郡(こおり)」と名付けたといわれ、後世、天皇即位後はじめて新穀をもって皇祖および天神地祇を奉祭する宮中行事である大嘗会(だいじょうえ)に麻布を貢進しました。
 昭和天皇即位の大典にあたり、忌部氏直属の子孫三木宋次郎氏(木屋平村:現美馬市木屋平)等が麁服[荒妙](あらたえ)の調達を命ぜられ、山川町山崎に織殿を建築し、選抜された女性数名の手で織り上げ献上しました。 この時の「あらたえ」の一部を譲り受け、本校の校宝「至誠無息」の旗の材料に使用しました。
 平成天皇即位の大典の時も「あらたえ」は献上されました。 本校の校歌に「古代文化の揺籃地 忌部の郷の丘の上に」とあるのは、そのような歴史を踏まえているのです。 また、「心ままなる人の世の蓬(よもぎ)をただす麻として」とあるのは、麻にゆかりのある風土を映して、「蓬、麻中に生ずれば扶(たす)けずして直(なお)し」(「荀子勧学編」)を出典とし「曲がりくねろうとする蓬のようなものでも、麻に混じって生えると支えがなくても真っ直ぐに伸びることができる、そのように、良き友を得て世の中を正す人になれ」ということを教えています。
 なお、本校の校章は、麻の葉を放射状の星形に図案化したものです。昭和11年度までは、丸い台座に浮彫りになっていましたが、昭和12年度からは星形のみとなっています。